「コンヴィヴィアル」という言葉があるのはご存知でしょうか?
なかなか普通に暮らしていたらお目にかからない言葉かもしれません。
私はこの言葉に出会ってから自分を自分として認められるようになったと思います。
最後にオススメしている本を改めて読むと、千変万化の今だからこそ、このコンヴィヴィアルという感覚は持っていくべきなのではないか、と感じざるを得ません。
※昔のブログ記事を加筆修正した記事になります。
convivial(コンヴィヴィアル)とは
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81
イリイチは「脱学校」で一斉を風靡した人です。
彼が脱学校を提唱してから、フリースクールが流行していきました。しかし、私はそこには共感していないのです。
原文を読めば読むほど、この言葉を一言で表す和訳は難しいと感じます。
一般的には共愉という表現が用いられることが多い言葉です。
コンヴィヴィアルの捉え方
私は「なんだか今楽しいなぁ!」って感覚がコンヴィヴィアルだと考えています。
学術的な視点から見ると、楽しんでいる対象が必ず「なにか」あるべきなんですが、それはこの言葉のポテンシャルを狭めている感じがしてしまうのです。
何かを対象としてしまうと勉強だったり仕事だったり、コンヴィヴィアルという言葉が具体性が持ってしまう。
そうすると感覚なんていう曖昧模糊としたモノは含まれなくなってしまいます。
コンヴィヴィアルとは、曖昧性を保持し続けるから意味がある
コンヴィヴィアルの指していることは、一人の人物の周りに必ず存在する、この曖昧模糊とした「何か」であって、一方方向でもあり、双方向でもあり得る感覚なのだと考えます。
これは別の分野だと心理学も同じだと思います。
一般的に二極論で語られやすい論争が同じこと。
どこかでみんながお互いに線を引いて、「こっちからは君の領域ね」というセクショナリズムを破壊するような概念なのではないかと感じています。
イリイチは「学校」というセクショナリズムを壊したなかったのではないでしょうかね。
コンヴィヴィアルは興味を持つところから始まる
「もっとお互いに興味を持とうよ」というのがコンヴィヴィアルではないでしょうか。
「きっとあの人は私なんて興味ないし、相手にされないんだろう」と勝手に決めつけて可能性を断つことは辞めようよ。
理解されないことを前提にしてしまうとそこで止まってしまう。
少しでもお互いの領域を理解しようとする姿勢を見せればうまくいくことなんてたくさんあると思う。
難しいことではあるのはわかってるんですがね…笑
っていうのを昔論文ってやつに書き起こしたことがあります。稚拙ですが興味が湧きましたら読んでみてください。
CiNii 論文 – 大学生の学びを対象とした知識創造のための学習環境 : ラウンジ : コンヴィヴィアルな学び合い
社会に出て仕事をしてもやっぱりそうだった。
コンヴィヴィアルについてのおすすめの書籍
コンヴィヴィアルについて少し興味が湧いたのであれば、下記のどれかを一冊読んでみるといいかもしれません。
脱学校の社会
コンヴィヴィアリティのための道具
生きる希望〜イバン・イリイチの遺言
イバン・イリイチ〜文明を超える「希望」の思想
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